[90], 武力衝突の最終段階は1945年10月、日本がインドネシア側に譲渡した町や都市の支配権を、連合軍との降伏条件に基づいて取り戻そうとした時に始まった。日本の憲兵隊は10月3日にペカロンガンで共和党の若手議員(Pemuda)を殺害し、また日本軍の部隊は西ジャワ州のバンドンから共和党の若手議員を追放してイギリスに都市を引き渡したが、日本人が関与した最も激しい戦闘はスマランで起きた。10月14日、イギリス軍がこの都市を占領し始めた。退却した共和党軍は報復として[要検証 – ノート]、捕らえていた130人から300人の日本人捕虜を殺害した。日本人500人とインドネシア人2000人が殺害され、日本はイギリス軍が到着して6日後にこの都市をほぼ占領した[91]。, このスマラン事件は、日本が連合軍に敗れたことを知ったインドネシア共産党がスマランで武装集団を組み、共産党下の独立を目論み行われたものであるという[3]。当時この共産党過激派によって「日本軍は連合軍の手先となって、インドネシアの独立を妨げる敵だ」「日本人は水道に毒を入れた」などのデマが広がっていた[3]。共産党過激派は日本軍が反撃できないことを知って武器を奪い、日本の民間人を殺害し、ジャワ地区の防衛司令官の邸を襲撃して旅団長を監禁し日本海軍将兵らを拉致した。スマランの治安に当たっていた日本の歩兵隊は拉致日本人約400人の救出のためにインドネシア共産党過激派との戦闘を余儀なくされた。突入するとすでに130人の日本人が惨殺されていた[3]。日本兵らが死ぬ間際に壁に血書し「インドネシア独立万歳」「インドネシアの独立に光栄あれ」(「バハギャ インドネシア ムルデカ」というインドネシア語で)、「天皇陛下万歳」という血文字が残っていた[3][2]。さすがにその血文字はインドネシア側に非常な感動を与えたため、その後に記念として保存されている[2]。, 1949年までに、オランダ当局は1038人の容疑者(蘭印占領に関与した拘束日本兵)に対して448件の戦争犯罪裁判を行った。そのうち969人(93.4%)が有罪となり、うち236人(24.4%)が死刑判決を受けた[93]。, 日本の占領下で、様々な教育を身につけ日本の礼儀作法や文化を好意的に受け入れていた子供たちや人々もいるが[2]、社会的抑圧や経済的困窮を経験した一般住民は、日本による占領を否定的に捉えている者もいた[94]。, 日本軍政の負の評価を大きくしているものが日本人の無遠慮な言辞や粗野な行動、原住民に抱かせた恐怖心と考えられると、芳賀美智雄は述べ、「誇張して伝えられている面もあろうが、軍人の中でも憲兵がその最たるものと言えよう」と見ている[95]。憲兵は、主として軍事警察を掌る軍隊内の警察であるが、兼ねて行政・司法警察も掌っていた。また、海軍には憲兵はなかったが、海軍軍政地域に憲兵と類似の海軍特別警察隊を臨時編成している[95]。, 戦時中に憲兵の取調べを受けたインドネシア人は「ケンペイタイは、常軌を逸する ほど乱暴で残酷でした。・・・私は、眼鏡をはずされ、取調べのあいだじゅう、粗野な言葉 で怒鳴り散らされるばかりでした」と[96]、憲兵の厳しい取調べの実態について回想している。ジャワ軍政監部治安部で勤務した糀谷慶次郎は「上陸直後、軍政警察ができるまで、治安維持は憲兵隊がすべてやっていた。とくに地方においては、憲兵というとぶるっと震えたぐらい怖かったですからね」と述べつつ、「スパイの摘発は日本軍の安危に係わる問題であって戦闘行動、作戦行動であった」と語っている[97]。中にはやり過ぎの傲慢すぎる憲兵もいたであろうが、一般的に見て憲兵の厳しい取り調べはスパイ摘発の職務のため仕方ない面もあり、憲兵の怖さはインドネシアだけではなく日本の国内でも同様であった[98]。, 一方、インドネシア国軍関係者の間では、比較的肯定的に評価されている[99]。民族主義指導者の一人、イワ・クスマ・スマントリ(Iwa Kusuma Smantri)は、「日本軍がインドネシア人に行った教育により、漁労、農業、その他の産業分野における作業方法も改善されるようになった。・・・インドネシア人は、各専門分野におけるマネジメントの方法を学んだ。その中には、農園管理や農業技術の管理から武器を扱う技術まで含まれていた」と述べており[100]、日本軍政当局は、インドネシア人に行政や農園・企業経営のノウ・ハウを学ぶ機会を与えた[101]。, 戦後の1987年、アラムシャ第三副首相は日本占領下の時代を振り返りながら「日本軍の軍政は良かった」と述懐している[102][2]。, 我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間にわたり、幾度か屍山血河の闘争を試みたが、オランダの狡智なスパイ網と、強靭な武力と、過酷な法律によって、圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が欣喜雀躍し、感謝感激したのは当然である。(中略)日本軍の軍政は良かった。…行政官の教育は徹底したものだった。原田熊吉ジャワ派遣軍司令官の熱烈な応援により、PETAが創設された。PETAは義勇軍と士官学校を合併したような機関で、38,000名の将校を養成した。兵補と警察隊も編成され、猛烈な訓練をしてくれたばかりでなく、インドネシア人が熱望する武器をすぐに供与してくれた。…(日本が連合軍に)無条件降伏した後も、多数の有志将校がインドネシアの独立戦争に参加してくれた。…経験豊かでしかも勇猛果敢な日本軍将兵の参加が、独立戦争を、我々に有利な方向に導いたか計り知れない。数百年来インドネシアに住む、数百万の中国人の大部分はオランダ側に加担して、インドネシア軍に銃を向けた。, 日本軍は1942年にジャワを占領後、「アジアの光日本、アジアの母体日本、アジアの指導者日本」という三つのスローガンを掲げた三A運動を展開した, 1940年の欧州ではドイツ進軍の影響から、オランダ政府が女王と一緒にロンドンに亡命しており, 独立戦争におけるインドネシア側の推定死亡者数は4万5千から10万人、そのほか民間人の死亡者数が2万5千人超で最大10万人にのぼる可能性があるとされる。詳細は英語版, これは蘭印だけを指す用語ではなく、マレー、グアム、パラオなど、大日本帝国軍が太平洋南側に進駐した占領地一帯のことを「南方領土」と呼んでいた。具体的な領土拡大(戦線)の経緯は, William Bradley Horton, "Comfort Women," in, Poelgeest. ったことはすでに紹介したが、その中で最も重要視されていたのが石油. Bart van, 1993, Gedwongen prostitutie van Nederlandse vrouwen in voormalig Nederlands-Indi? 第二次世界大戦中、すなわち仏印進駐から日本の降伏に至るまでの時期における日本軍の東南アジア占領に関するカテゴリ。. る。それにふれる前に, アメリカにおける東南アジア全体の日本軍政研究をみておこ う。後藤, 倉沢の研究[1989, 1992]の 序論でも言及されているが, 日本の東南アジ ア占領が, インドネシアの場合 「社会的, 政治的変容を引き起こす契機となった」と トウナン アジア センリョウ ト ニホンジン : テイコク・ニホン ノ カイタイ 1 日本軍政(占領)期に対する評価 欧米においては、1950 年代にアメリカの近代史家ウィラード・H・エルスブリー(Willard H. Elsbree)が「戦争は東南アジアに大きな社会的、政治的変容を引き起こす契 … 日本の有史以来の最大版図(最大の領土・領域)の地図を作ってみました。東南アジアや太平洋で仕事や旅行をする方などは覚えておくと良いと思います。日本の戦後賠償、東・東南アジアにおけるodaについても簡単に解説します。 「そして東南アジア占領とその破綻をめぐる日本人の「植民地経験」に注目するとき、東南アジアという「他者」に対して日本帝国のやり方が通用しないことを学ぶという経験そのものが日本人に与えた歴史的衝撃としての意味も浮かび上がってくる。 完. 爾. 1.]" ], Atjeh Post, Minggu Ke III September 1990. halaman I & Atjeh Post, Minggu Ke IV September 1990 halaman I. Piccigallo, Philip; The Japanese on Trial; Austin 1979; イワ・クスマ・スマントリ『インドネシア民族主義の源流-イワ・クスマ・スマントリ自伝-』後藤乾一訳(早稲田大学出版部、1975 年)105 頁。, en:Japanese occupation of the Dutch East Indies, en:Indonesian National Revolution#Impacts, "Spell of the Rebel, Monumental Apprehensions: Japanese Discourses On Pieter Erberveld,", The Kingdom of the Netherlands Declares War with Japan, Library of Congress, 1992, "Indonesia: World War II and the Struggle For Independence, 1942–50; The Japanese Occupation, 1942–45", "Pramoedya and the Comfort Women of Buru A Textual Analysis of Perawan Remaja dalam Cengkeraman Militer (Teenage Virgins in the Grasp of the Military), "Hidden Sexualities and Secrecy of Prestige: The Development of Military Prostitution in Borneo", https://books.google.com/books?id=GIHcaFVxXf0C&pg=PA22, Women made to become comfort women - Netherlands. 赤 木. 1986)、『近代日本と東南アジア』(岩波書店、1996)。最近出されたものですと、『東 南アジアから見た近現代日本-「南進」・占領・脱植民地化をめぐる歴史認識』(岩波書 店、2012)など、多数の著作・論考を発表されております。 1937(昭和12)年7月7日に起きた「盧溝橋事件」に端を発した日中の武力衝突は、全面戦争となり、泥沼の様相を見せ始めていました※。 1938(昭和13)年末、近衛文麿首相は戦争の目的が日本・満州・中華民国(日・満・華)の三国連帯による「東亜新秩序」建設にあることを声明しました。 1年以上 … このテキストは、「日本の東南アジア占領体制─フィリピン、インドネシアを比較して─」『歴史学研究』651号(1993年10月、1993年度大会報告集):179-188頁を改題してインターネット上での公開のために若干の修正を加えたものです。 タイトル読み. tamam010yuhei@gmail.com, 著書「あなたの教養レベルを劇的に上げる驚きの世界史」(KADOKAWA) 1. 日本軍による植民地運営でオランダ人管理者がそのまま維持されることを期待して、大半のオランダ人は去るのを拒んでいた。ところが彼らは強制収容所に送られ、日本人またはインドネシア人の交代要員が上官および技術的地位として動員された[25]。日本軍は港湾や郵便などのインフラおよびサービスを政府の統制とした[21]。10万人のヨーロッパ民間人(と若干の中国人)が拘禁されたうえ、8万人のオランダ、イギリス、オーストラリア、アメリカの同盟軍兵士が捕虜収容所に行き、そこでの死亡率は13-30%だった[17]。, (以前オランダ植民地政府に勤務していた現地公務員や政治家で構成された)インドネシア人の支配階級は日本の軍当局と協力し、日本側はそのまま現地の政治エリートたちに権力を維持させて、新たに到着した日本の産業工場や企業および軍隊に彼らを雇用した(蘭印における補助的な軍隊や警察の上級職は日本軍によって運営されていた)。インドネシア人の協力により、日本の軍事政権は大規模な群島の水路および空路を確保することができ、その島を連合軍の攻撃(オーストラリアから襲来する可能性が最も高いと考えられる)に対する防衛拠点として使用することができた[26]。日本の植民地支配者はインドネシアを3つの地域に分けた。スマトラ島は第25軍の配下に置かれ、ジャワ島とマドゥラ島は第16軍の配下に、ボルネオ島とインドネシア東部は第二艦隊 (日本海軍)によって統治された。第16軍と第25軍はシンガポールに本部を構え[5]、統治命令がスマトラ島のみに縮小されて本部がブキティンギに移る1943年4月まで英領マレーを統治した。第16軍はジャカルタに本部を置き、第二南方艦隊はマカッサルに本部を置いた。, オランダ人が現地人に対して行った愚民化政策と違って、日本人は官吏養成学校、師範学校、農林学校、商業学校、工業学校、医科大学、商船学校などを開校し、インドネシア人に広く高等教育を施しインドネシア語を公用語とした[2]。特にジャワとスマトラで、日本人は多くの若いインドネシア人のエリートを育て、郷土防衛義勇軍(PETA)も創設し軍事訓練を課して武装させ彼らの民族主義的指導者たちに国民的自覚を与えた[2]。このように、オランダ植民地体制の破壊とインドネシアのナショナリズム促進の両方を経験させた日本の占領が、太平洋戦争での日本降伏から数日以内にインドネシア独立宣言に至るだけの状況を作った[2]。そして太平洋戦争後も残留していた有志の日本軍将兵の1,000人以上(約2,000人が残留し、その半数が戦死したとされる[3])がその後のインドネシア独立軍に参加することになる[2]。, 居住地域や社会的地位によって占領の体験には大きな差があった。アジアの教科書によると、戦争の遂行に重要だと考えられる地域に住んでいた多くの人々は拷問、従軍慰安婦、恣意的な逮捕および処刑、などの戦争犯罪を経験したとされる[24][要検証 – ノート]。泰緬鉄道やサケティ-バヤ鉄道(en)などでインドネシアから何千人もの人々が日本軍の計画による強制労働者(ロームシャ)として連れ去られ、虐待や飢餓によって苦しみ死亡することもあった[24]。ジャワでは400万-1000万人のロームシャが日本軍によって労働を強制された[27][要出典][出典無効][要検証 – ノート]。約27万人のジャワ人労働者が他の東南アジアの日本領地に派遣され、ジャワに帰国できたのが5万2千人だけのため、その死亡率は80%とされている[24]。しかしながら、芳賀美智雄はロームシャについて、「どのくらいの人数が動員されたのか正確には判明していない」と述べている[28]。水間政憲は、何万人ものインドネシア人が、飢餓状態あるいは奴隷労働者として働いていたなど、日本人から酷い扱いを受け強制労働させられたといった類いの主張は、自身が調べた様々な証拠資料[2]の事実と反するとし、そうした奴隷労働させられていたなどという反日的な誇張の類いがインドネシアの教科書などに記載されるようになったのは、欧米に留学していた者たちがインドネシアの要職を占めるようになった1990年代からであると述べている[2]。, 独立戦争では、独立が達成される前に数万いや数十万の人々[注釈 3]が日本軍、連合軍、および対立するインドネシア人との戦いで死亡することになった[29][30]。後の国連報告は、日本による占領中の飢饉と強制労働の結果、インドネシアでは400万人(3万人の抑留されたヨーロッパ民間人も含む)が死亡したと主張した[31]。オランダ政府の調査は、日本軍がどのようにインドネシアで女性を慰安婦として強制雇用したかを説明した[32]。そこでは日本軍の売春宿で働いているヨーロッパ人女性200人から300人のうち「およそ65人はほぼ確実に売春を強要された」と結論付けていた[33][要検証 – ノート]。 他の若い女性(およびその家族)は、収容所や戦時中の社会で様々な圧力に直面しており、仕事として売春提供したことは認めたが、その性質(強制的だったか否か)が明示的に述べられていないものも多い[34][35][36][37][38][39][40][41]。, 学生(Pemuda)を地下活動に導いたスタン・シャフリルに次ぐ、唯一の著名な反対派政治家は左派のアミル・シャリフディン(英語版)で、彼はマルクス主義者や民族主義者との関係を通して地下のレジスタンス運動を組織するため1942年初頭に25,000ギルダーをオランダ人より与えられた。1943年に日本軍がアミルを逮捕するもインドネシアで人気があったことから、戦争遂行にとっての重要性が日本側に認識されていたスカルノの介入もあって処刑をかろうじて免れた。スラバヤに拠点を置くアミルのグループ以外で、連合側に味方する最も積極的な活動集団は、中国人、アンボン島民、マナド市民だった[42]。, 南カリマンタンでは、ポンティアナック事件が起きる前、インドネシア人民族主義者とオランダ人による日本軍への反乱計画が発覚した[43]。一部の資料によると、これは1943年9月に南カリマンタンのアムンタイ(id)で起こり、イスラム国家の創設や日本人の追放が含まれていたが、同計画は(日本軍によって)潰された[44][45]。, 1943年に、日本人は王族の一員であるスルターンのTengku Rachmadu'llahを処刑した[46]。1943-44年のポンティアナック事件(マンドール事件としても知られる)にて、日本軍はカリマンタンでマレーのスルターン全員を含むマレー人エリートおよびアラブ人、中国人、インドネシア人、オランダ人、インド人、ユーラシア人の大量逮捕を行った。彼らは日本の統治を倒そうと企てたことで告発され、その後全員処刑された[47][48]。イスラーム教のペムダ・ムハマディヤ(Pemuda Muhammadijah)などの民族集団や組織のすべてが日本軍を転覆させて「西ボルネオ人民共和国(Negara Rakyat Borneo Barat)」を創設する計画に関与していた、と日本軍はうそぶいて主張した[49]。日本軍は 「互いに敵対していたスルターン、中国人、インドネシア政府関係者、インド人、アラブ人が、日本軍を皆殺しにするため一丸となった」と主張し、計画された反乱の「首謀者」の一人としてポンティアナックのスルターンを名指しした[50]。最大25人の貴族、ポンティアナックのスルターンの親族、ほか多くの著名人が計画の参加者として日本側に名指しされ、その後マンドール(Mandor)にて処刑された[51][52]。ポンティアナックのほかにも、サンバス、ケタパン、メンパワなど各地のサルターン全員が日本軍によってそれぞれ処刑された[53]。この事案は「12Dokoh(ジャワ語で12の垂れ飾り)」として知られている[54]。, ジャワ島で、日本軍はシャリフ・モハマド・アルカドリというスルターンの息子であるシャリフ・アブドゥル・ハミド・アルカドリ(en)を投獄した[55]。処刑時期にジャワにいたため、このハミド2世は彼の家族の中で殺されなかった唯一の男性となったが、一方で日本軍はポンティアナックのスルターンであるムハンマド・アルカドリの男性親族28人全員を処刑した[56]。日本人によって処刑されたポンティアナックのスルターンの親族29人の中には、ポンティアナックの王位継承者がいた[57]。1944年後半に、同事件に関与しておりその残虐行為で知られていた、ナカタニという名前の日本人男性をダヤク族が暗殺した。ポンティアナック・ムハンマド・アルカドリの4番目の息子、ペンゲラン・アゴーンともう一人の息子ペンゲラン・アディパティが、この事件で両方とも日本人に殺害された[58]。日本側は公開処刑にて、この両名を斬首した[59][60]。日本人によるポンティアナックのマレー人エリートの殲滅は、代わりに新たなダヤク族エリート出現の道を作った[61]。メアリー・F・ソマーズ・ヘイドゥーズによると、1945年5月から6月にかけて、サンガウ(en)にいた何人かの日本人がダヤク族による反乱で殺害された[62]。ジェイミー・S・デヴィッドソンによると、多くのダヤク族および日本人が殺害されたこの反乱は1945年4月から8月にかけて起こり、「マジャン村(Majang Desa)戦争」と呼ばれた[63]。ポンティアナック事件は、学者によって2つの事件に分けられ、異なる日にいくつかの段階で発生した集団殺害や逮捕に従って様々に分類されている。このポンティアナック事件はカリマンタンにいる中国人コミュニティに悪い影響を与えた[64][65][66][67][68]。, アチェ州のウラマー(イスラム法学者)は、1942年2月にオランダ側と対立して反乱を、そして1942年11月には日本側と対立して反乱を起こし、オランダ軍と日本軍の両方と戦った。この反乱は全アチェ宗教学者協会(PUSA)により主導された。この暴動で日本人は18名が死亡したが、一方で彼らはアチェ人を最大100人または120人超にわたり大量殺害した[44][69]。この反乱はバユで発生し、Tjot Plieng村の宗教学校を中心に起こった[70][71][72][73]。同反乱中の11月10日と13日に、迫撃砲と機関銃で武装した日本軍はBuloh Gampong TeungahおよびTjot Plieng村にて、トンクゥ・アブドゥル・ジャリルの下で刀を振るうアチェ人に襲撃された[74][75][76][77][78][79][80]。1945年5月、アチェ人は再び反乱を起こした[81]。, 戦争の数十年前、オランダ人がインドネシアで小さな民族主義運動を圧倒的に鎮圧するのに成功したが、日本人は来たるべきインドネシア独立に向けた基礎を示して見せた。占領期に、日本人はインドネシアの民族主義的感情を奨励および支援して新たにインドネシア人の機関を創設し、スカルノのような民族主義の指導者らを後押しした。インドネシアの民族主義に備わった開放性は、日本人によるオランダ植民領の大部分の破壊と組み合わさって、第二次世界大戦後のインドネシア独立戦争の根幹となった[29]。, とはいえ、占領から2か月以内に、彼らは当初は許可した民族主義的な(赤と白の)インドネシアの旗の使用を後日禁止とした[4]。実際、「国の政治組織や政府に関するいかなる議論、組織、思索、宣伝」が(メディアにおいても)厳禁とされた。彼らはオランダ領東インドを3地域に分け、それを「南方領土」と呼んだ[注釈 4]。1943年に東京がフィリピン独立に向けた準備をしている間、彼らは同時進行でインドネシアの島々をより大きい大日本帝国に併合することを決定した。太平洋戦争が転機を迎える1944年末まで、日本側はインドネシアの独立を真剣に支持していなかった[82]。, 日本の政権は、ジャワ島のことを政治的には最も洗練されているが経済的には最も重要度の低い地域だと認識しており、そこの人材が日本の主な資源となった。このように、またオランダの抑圧とは対照的に、日本はジャワ島にてインドネシアの民族主義を奨励したことで現地の政治的洗練度を高めた(戦略的資源が豊富なスマトラにおける同様の民族主義奨励は後回しとなっており、ただそれが明らかになったのは日本が戦争で負けた後だった)。ただし、海軍の支配下にある外側の島々は、政治的には発展途上ではありながら日本の戦争遂行にとっては経済的に重要視されており、これら地域はインドネシア全域の中で最も圧制的に統治されていた。これらの経験とそれに続く民族主義の政治問題化の違いは、独立した直後(1945-1950年)に起きたインドネシア独立戦争の過程に大きな影響を与えることになる。, 西側連合軍と対立する戦争遂行で、支持を得ながらインドネシアの人々を動員するため、日本の占領軍はインドネシアの民族主義運動を奨励してインドネシア人の国家主義的指導者を採用した。1943年4月16日にスカルノ、ハッタ、キ・ハジャル・デワンタラたちが動員センター の人々の支持を集めるために呼ばれ、1944年3月1日に Jawa Hokokai と入れ替わった。これら動員集団の中には、ロームシャとして強制労働に送られた人もいた。, 日本軍はまた、インドネシアの若者に郷土防衛義勇軍(Pembela Tanah Air:PETA)と呼ばれるボランティア軍を結成し、軍事訓練および武器の提供を実施していた。インドネシアの若者に施した日本の軍事訓練はもともと大日本帝国の権力崩壊に対応した現地での支援集めを目的としていたが、後のインドネシア独立戦争ではインドネシア共和国にとって重要な資源となり、また1945年におけるインドネシア国軍の形成につながった[3]。, 1945年4月29日、ジャワ島における第16軍 (日本軍)の司令官である原田熊吉中将は、第16軍支配下にある地域の独立を確立させる初期段階として、独立準備調査会(Badan Penyelidik Usaha Persiapan Kemerdekaan:BPUPK)を設立した[83]。, 新たに発現されたインドネシアの民族主義に加えて、来るべき独立闘争と国内革命にとって等しく重要となったのが、日本側が組織した経済的、政治的、社会的解体とオランダ植民地国家の壊滅である[29]。, 日本軍は連合軍に敗れる前に、インドネシア青年に飛行機の操縦を教えており、日本軍の練習機がインドネシア独立戦争に使用された[3]。, 政治学博士のジョージ・S・カナヘレは、著書『日本軍政とインドネシア独立』において、日本の果たした役割として以下の4点を掲げている[3]。, マッカーサー最高司令官は1944-45年にジャワを解放すべく連合国軍と共に戦おうとしたが、統合参謀本部およびルーズベルト大統領からの命令が下りなかった。 そのため日本の占領はポツダム宣言受諾による降伏で正式に終結し、その2日後にスカルノがインドネシア独立を宣言した。しかしインドネシア軍はその後4年間、独立に向けて今度はオランダと戦うことになる。, アメリカ側がジャワでの戦争を抑制したことで、確かに日本人、ジャワ人、オランダ人、アメリカ人の多くの命が救われた。ただし、マッカーサーが自分のやり方を採用してアメリカ軍がジャワを占領した場合、インドネシアの独立はより迅速かつ円滑に達成されただろうとする説もある[84]。後年の国連報告書は、日本による占領の結果としてインドネシアでは400万人が死亡したと記している[85]。1944-45年にかけて、ジャワでは約240万人が食料不足で死亡したとされる[86]。, 西側の囚人を収容している捕虜収容所の解放は迅速ではなかった。戦後における収容中の状況はそれ以前の収容下よりも良好だった。というのも今回は赤十字社の補給品が利用可能になったためで、また連合国軍が日本側を最も凶悪で残忍な占領者の本拠地としたこともある。戦後4か月の拘留を経て、西側の被収容者はインドネシアを去ることを条件に解放された[要出典]。, この送還プロセスは大部分の個人にとって約1年、しばしば2年以上かかったものの、ほとんどの日本軍兵士および植民地管理の文民が戦後日本に送還された。数千人以上の肉体労働や治安維持活動といった戦争犯罪に関する選別および約1038人の個人に対する戦争犯罪裁判を経て、彼らは残りの日本の船で日本に送還された。約1,000人の日本人兵士が自分達の部隊(当時は連合軍の指揮下)から脱走し、彼らは自分自身を現地のコミュニティに同化させた。これら兵士の多くはTNIや他のインドネシア軍事組織に加わり、アブドゥル・ラクマン(市来龍夫)を含むこうした元日本兵の多くはインドネシア独立戦争で死んだ[87][88][89] 日本占領下の東南アジアにおける日本語教育 ―マラヤ、北ボルネオを中心に― 松永典子(九州大学教授) 上田:それでは後半の部の方に入ります。まずご登壇いただきますのは、松永典子先生で す。 Afdeling Documentatie Modern Indonesie 2001, "Tempo: Indonesia's Weekly News Magazine, Volume 3, Issues 43-52" 2003, http://www.atjehcyber.net/2011/08/sejarah-jejak-perlawanan-aceh.html, "Berita Kadjian Sumatera: Sumatra Research Bulletin, Volumes 1-4" 1971, "Sedjarah Iahirnja Tentara Nasional Indonesia" 1970, "20 [i. e Dua puluh] tahun Indonesia merdeka, Volume 7", "Sedjarah TNI-Angkatan Darat, 1945-1965. 戦後日本の東南アジア回帰とアメリカの冷戦政策 おわりに四 朝鮮戦争の衝撃. タイトル別名. インドネシアだった。 寄稿実績:ビジネス雑誌、WEBメディア、会報誌など多数. 太平洋戦争とその影響が語られる時、日本の社会や政治体制、人々の心の面がどう変わったか、あるいは変わっていないか、という面にフォーカスが当たる傾向が多いように思います。 それはそれで大事なのですが、日本がおっぱじめた戦争が、他の国々にどれくらい大きな影響を与えたかという視点で語られることはあまり無いように思います。 あっても、「アジア解放に多大な貢献した」とか「住民を殺したり強姦しまくった」みたいな物事を単純化した見方ばかりです。 さて、日本軍のフィリピン占領 … カテゴリ「日本占領下の東南アジア」にあるページ. 大東亜共栄圏での、日本の東南アジア占領のようすはどのようなものだったのでしょうか??>大東亜共栄圏での、日本の東南アジアの占領‥‥ というご質問ですが、これ等の地域はタイを除いて欧米列強の植民地下にあったわけで、現地の人々 1965, “Life and Death of "Abdul Rachman" (1906 -- 49): One Aspect of Japanese-Indonesian Relationships”, http://cip.cornell.edu/seap.indo/1107107677, Japanese recounts role fighting to free Indonesia, Indonesians to get book on Japanese freedom fighter, https://books.google.com/?id=T9A6BEmfkn8C&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false, https://books.google.com/books?id=5oO6AAAAIAAJ, “"Primitive" Politics: The Rise and Fall of the Dayak Unity Party in West Kalimantan, Indonesia"”, https://web.archive.org/web/20140518224034/http://www.ari.nus.edu.sg/docs/wps/wps03_009.pdf, https://books.google.com/?id=wpJGooepEMYC&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false, 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https://books.google.com/?id=RzVUOidajPAC&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false, https://books.google.com/?id=VwNeusDwx9wC&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false, https://books.google.com/?id=0GrWCmZoEBMC&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false, https://books.google.com/?id=ukurAAAAIAAJ&lpg=PA207&dq=revolt%20Java%20Japanese%20February%201944&pg=PA207#v=onepage&q&f=false, https://books.google.com/books?id=3NETAQAAMAAJ, https://books.google.com/books?id=BiTjAAAAMAAJ, https://books.google.com/books?id=cKbQAAAAMAAJ, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=日本占領時期のインドネシア&oldid=79650896, オランダ人を一掃し、インドネシア人に高い地位を与え、能力と責任感を身につけさせた。, ジャワにプートラ(民族結集組織)や、ホーコーカイ(奉公会)の本部を置き、国土の隅々まで支部を作り、組織の運営方法を教えた。. 日本占領時期のインドネシア(にほんせんりょうじきのインドネシア、英:Japanese-occupied Dutch East Indies)では、第二次世界大戦中の1942年3月から1945年9月終戦にかけて大日本帝国が占領した「蘭印」と通称される当時のオランダ領東インド(現在のインドネシア)について説明する。, この時期はインドネシア史における最も重要な時代のひとつである。オランダ領東インドは1819年以来オランダの植民地にされていた。しかし、ドイツによってオランダ本国が1940年に占領されたため、オランダは大日本帝国軍に対抗して同植民地を守る能力がほとんどなく、ボルネオへの最初の攻撃から3か月も経たずに日本の陸海軍がオランダ軍および連合軍を圧倒した[1]。当初は、大部分のインドネシア人が喜んでオランダの植民支配からの解放者として日本側を歓迎し[2]、日本はオランダが禁止していた「インドネシア」という呼称を公の場で使用することを解禁した[2]。しかしながら日本軍は、連合軍との戦いを成功に導き勝利を得るための戦略立てとはいえ、占領後しばらくすると、オランダ同様に結社や集会、政治に関する言論、行動および民族旗使用の禁止を布告しインドネシア民衆の期待を裏切ったこともあった(その後は民族結集組織を全国に作っている[3])[4]。また戦争遂行にあたり現地のインドネシア人にとっては厳しい規律の日本式の軍政や皇民化が施され、飢饉を招いた籾の強制供出、防衛強化のためのロームシャと呼ばれる過酷な重労働を課せられた者もあり、戦時下の艱難辛苦に耐えるよう期待されていることを彼らが悟るにつれ、その感情は変化していった「負」の側面もあった[4]。こうした立ち位置の違いにより功罪の両方の意見や認識があるものの、厳しい教育により優秀な人材が育成されたことや、英語やオランダ語ではなく「インドネシア語」が公用語になったことなど、日本の軍政施策が結果的にインドネシアやインドネシア民衆のために役立った「正」の面があることも重要な事実である[4][2]。, 1944年から1945年にかけて、連合軍の主な部隊はインドネシアを迂回しており、ジャワやスマトラのような人口の最も多い地点に入って戦うことがなかった。そのため、1945年8月の日本降伏時にも、インドネシアの大半が依然として日本の占領下にあった。この占領はインドネシアで初となるオランダにとっての深刻な課題であり、オランダの植民地支配を終わらせるものとなった。また、その終結時までの変化は非常に多彩かつ尋常ならざるもので、その後の経緯としてインドネシア革命がほんの3年前には実現不可能な方法で可能になった[5]。しかしながら、オランダはこの元植民地を奪還しようと画策し、外交的、軍事的、社会的な厳しい戦いが5年にわたって行われ、最終的には1949年12月にオランダがインドネシアの主権を認めることとなった。, 1942年までインドネシアはオランダによって植民地化されており、オランダ領東インド諸島(日本では「蘭印」)として知られていた。1929年、インドネシア民族主義の黎明期にインドネシア国民党の指導者スカルノとモハマッド・ハッタ(後の初代大統領と副大統領)は太平洋戦争を予見し、インドネシアにおける日本の進駐が独立にとって有利に働くかもしれないと考えていた[6]。, 日本人は自分たちが「アジアの光」であるとの言葉を広めた[注釈 1]。19世紀末の日本は技術や社会の近代化に成功した唯一のアジア国家で、大半のアジア諸国が欧米の権力支配下にあった時も独立を保ち続け、日露戦争ではロシアという欧州の力を打ち負かしていた[8]。支那事変(日中戦争)の後、日本は東南アジアに目を向けて他のアジア諸国に「大東亜共栄圏」を提唱、これは日本のリーダーシップ下における一種の交易圏として説明された。20世紀前半に日本人はアジアにおける影響力を徐々に拡大し、1920年代から1930年代にかけてはインド諸島とのビジネスを確立した。小さな町の理髪師、写真スタジオ、セールスマンから、大規模百貨店や鈴木商店や三菱グループといった企業までが砂糖取引との関連で進出した[9]。, 1931年に日本人の人口は居住者6949人でピークに達し、その後は主に日本とオランダ領東インド政府との間の経済的緊張から漸減していった[10]。特にムスリム系政党のインドネシア人民族主義者との関係を築くべく多くの日本人が同政府から派遣され、インドネシア人民族主義者達も日本訪問の支援を行っていた。こうしたインドネシアでの民族主義奨励は、日本側のより遠大な「アジア人のためのアジア」という計画に向けた一部だった[9]。大部分のインドネシア人がオランダの人種に基づく植民地システムを廃止するという日本の約束に期待する一方、オランダ支配下で特権的地位を享受していた中国系インドネシア人(インドネシア華僑)はこれを楽観視できなかった。また、ファシズムに対抗するソビエト連邦の統一戦線に追従していたインドネシア共産党の地下組織メンバーも懸念を示していた[11] 。1930年代後半における満州国の設立および、日清戦争後の台湾の日本統治は、反日運動を支援するための資金を準備したインドネシア華僑(中国人)の間に不安を引き起こした。オランダの諜報機関もインドネシアで暮らしている日本人(en)を監視した[12]。, 1941年11月、インドネシアの宗教的・政治的グループ組織かつ労働組合でもあるMadjlis Rakjat Indonesia(インドネシア人民会議)は、戦争の脅威に直面してインドネシア国民の動員を求める覚書をオランダ領東インド政府に提出した[13]。 同政府はこのインドネシア人団体を国民の代表とは見なさなかったため、その覚書は拒否された。その後、僅か4か月も経たぬ内に、日本側がこの群島を占拠していった。, 1941年12月8日、オランダ亡命政府[注釈 2]が日本に対して戦争を宣言した[15]。1月には、アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)将軍の指揮の下、東南アジアにおける連合軍を調整するためのABDA司令部が結成された。侵攻に至るまでの数週間でオランダの政府高官は、政治犯、家族、個人的職員を連れてオーストラリアに亡命した。日本軍が到着する前には敵対するインドネシア人グループ間での対立があり、そこでは人々が殺害されたり、行方不明になったり、隠れ潜んだりした。中国人(華僑)およびオランダ人が所有していた財物は荒らされたり破壊された[16]。, 1942年初頭における日本の侵攻は迅速かつ完璧なものだった。1942年1月までに、スラウェシとカリマンタンの一部が日本の支配下となった。2月までに日本人はスマトラの上陸を完了し、そこで現地のアチェ人にオランダに反抗するよう推奨した[17]。2月19日、既にアンボンを占拠した日本側の東方支隊はティモール島に上陸し、クパン近くの西ティモールに特殊落下傘部隊を降下させた。そして12月には侵攻してきた連合軍を追い出すためにポルトガル領ティモールのディリ地域に上陸した[18]。2月27日、日本阻止を目的とした連合軍海軍最後の奮闘は、ジャワ海域の戦いでの敗北により一掃された[19]。1942年2月28日から3月1日にかけて、日本軍はジャワ島北海岸沿いの4地点に一斉上陸した[20]。最も激しい戦闘が、アンボン、ティモール、カリマンタン、ジャワ海域での侵攻地点で行われた。バリのようにオランダ軍がいない場所では戦闘が行われなかった[21]。3月9日、オランダ軍司令官は総督のアリディウス・チャルダ・ファン・スタルケンボルフ・スタックハウエル(en)と共に降伏した[17]。, 日本の占領は当初、大日本帝国軍旗を振って「日本は私たちの兄」「万歳大日本」などの支持を叫ぶインドネシア人から楽観的な熱意で歓迎された[2]。日本軍が進駐するにつれて、反体制的なインドネシア人が事実上全ての群島地域でヨーロッパ人グループ(特にオランダ人)を殺害するようになり、より大きなグループの居場所については日本軍に確実に知らせていた[22]。 著名なインドネシア人作家のプラムディヤ・アナンタ・トゥールは次のように述べている。「日本軍の到着と共にほぼ全員が希望に満ち溢れていた、例外はオランダ人のために働いていた者だけだった」[23]。, 植民地軍は収容所送りにされ、インドネシア側の兵士は解放された[24]。 このカテゴリには 18 ページが含まれており、そのうち以下の 18 ページを表示しています。 [Tweede Kamer, vergaderjaar 93-1994, 23 607, nr. 大学生の娘を持つウヨ親が、課題の練習問題を読んで震えている。 以下が、ウヨ親が怖くてたまらないらしい課題の内容。 (1)以下の文章を100字以内で要約せよ。 インドネシアはオランダの植民地だったことで知られるが、日本も1942年から1945年までインドネシアを軍事占領した歴史がある。 日本軍がアジア諸国の独立を救けたのではなく、日本と闘うことでアジア諸国民は強くなって行った これは、東南アジア全体に言えることです。例えばビルマの場合、日本は形式的にはビルマの独立を認め … 東南アジア占領と日本人 : 帝国日本の解体. 日本軍に(一時)占領されていた東南アジアでは(日本敗退後、再び植民地化しに戻ってきた白人と独立戦争でこれに勝利し)開放を喜びました。 どうですか、言葉をちゃんと補ってやるとイメージがだいぶ変わ … 戦後日本の東南アジア回帰とアメリカの冷戦政策. Koninklijk Instituut voor Taal-, Land- en Volkenkunde (Netherlands). ご意見・ご感想、お仕事のご依頼などはこちらから。 日本占領時期のインドネシア(にほんせんりょうじきのインドネシア、英:Japanese-occupied Dutch East Indies)では、第二次世界大戦中の1942年3月から1945年9月終戦にかけて大日本帝国が占領した「蘭印」と通称される当時のオランダ領東インド(現在のインドネシア)について説明する。 太平洋戦争とその影響が語られる時、日本の社会や政治体制、人々の心の面がどう変わったか、あるいは変わっていないか、という面にフォーカスが当たる傾向が多いように思います。, それはそれで大事なのですが、日本がおっぱじめた戦争が、他の国々にどれくらい大きな影響を与えたかという視点で語られることはあまり無いように思います。, あっても、「アジア解放に多大な貢献した」とか「住民を殺したり強姦しまくった」みたいな物事を単純化した見方ばかりです。, さて、日本軍のフィリピン占領は、実際のところフィリピン社会の土台を揺るがすような変化を何も起こすことはありませんでした。一方で戦後フィリピンの国の選択肢を狭め、国の有り様を決定づける結果になりました。, フィリピンは1901年からアメリカの植民地になっており、当然アメリカの影響力が最も大きかったのですが、フィリピン内の日本の影響力も無視できないものがありました。, 在留邦人は約3万人と中国人の次に多く、貿易でも1940年の数字はアメリカ(34.4%)に次いで18.4%のシェアを占めるなど、人的・経済的な結びつき非常に強いものがありました。, このような強い日本との結びつきは、もしフィリピンがアメリカから独立したら、日本の経済圏に取り込まれてしまい、国を丸ごと奪われるか、あるいは満州のように国土の一部を切り取られてしまうのではないか、という懸念を生じさせました。, 実際、アメリカへの抵抗を続ける反対勢力はカウンターとして日本の武力に期待し、元独立軍司令官でフィリピン人の間でも尊敬されるアルテミオ・リカルテ将軍は横浜に亡命していたし、強烈な反米主義者で蜂起事件を起こしたこともあるガナップ党党首ベニグノ・ラモスも、日本に亡命し右翼団体・大亜細亜協会の保護を受けていました。, 早速政府はアメリカ本国からダグラス・マッカーサー前陸軍参謀長を招聘し、日本が侵攻してきた際の防衛戦略の立案や要塞の強化、さらには予備役訓練の実施など、日本を仮想敵国とする防衛体制の強化をスタートしました。, 一方でコモンウェルス政府大統領のマヌエル・ケソンは、日本政府ともたびたび連絡を取り合いお互い領土的野心がないことを確認しあった上で、日本を刺激しないように防衛予算の削減を実施するなど、日本との友好関係の維持に努めました。, しかしケソン大統領の外交政策も、日本軍の仏印進駐に対するアメリカの制裁に歩調を合わさざるを得ず、対日貿易の停止やフィリピン陸軍のアメリカ軍への統合など対決姿勢を強くしていきました。, 23日にはルソン島リンガエン湾に日本軍が上陸し、マッカーサーは水際防衛を断念し軍主力をバターン半島に退却させ、自らもコレヒドール要塞に脱出しました。, 日本軍は1942年1月2日にマニラを占領。その後バターン半島の戦いが終わるまで戦闘は長引くものの、各地の占領が滞りなく進んでいきました。, このアメリカの敗北と日本の勝利はフィリピン人に大きな衝撃を与え、「結局アメリカはヨーロッパを優先して自分たちを助けてくれなかった」という思いを抱く者が現れてきます。日本はそのような心理状態を突き、「アメリカ依存から脱却をし、アジアへ復帰を果たす」ための「新比島建設」のプロパガンダを喧伝しました。, 1943年5月にマニラを訪問した東条英機は「誤れる米国主義を速やかに一掃して大東亜民族の真の姿」に立ち帰り「大東亜戦争の完遂に協力し、一日も速やかに独立の栄冠を獲得する」ことを望むと述べました。, 一方で、日本軍政はフィリピン・コモンウェルスの体制をそっくりそのまま温存しました。, 「新比島建設」など大層なことを言うのであれば、既得権益層の破壊や政治体制の刷新など考えてもいいものですが、1943年10月に発足したホセ・ラウレル大統領の「フィリピン第二共和国」の発足以降も、議員や地方の代議士も旧体制のまま何も変化がありませんでした。, なぜ日本軍がフィリピンの体制を温存しようとしたかというと、「特にめぼしい物資がなかったから」です。, インドネシアの石油やすずなどは、既得権益層や抵抗勢力をぶっ潰してでも手に入れたかったに違いありませんが、フィリピンで産するものといえば椰子油や砂糖、コプラ程度であったため、日本軍にとってフィリピンは「特に問題を起こさずに従順な存在でいてくれればそれでいい」くらいに思っていたようです。, そのため、積極的な経済投資や戦災によってストップした物流の復帰は放棄され、日本軍政はフィリピン経済の「自給自足」を奨励しました。しかし、フィリピンは既にアメリカとの強い経済的結びつきによって成り立っており、アメリカとの貿易が断ち切られ極度の物資不足や経済混乱に陥ることになり、さらには日本軍は軍事物資の現地徴収を強化したため、フィリピン人は「新比島建設」などといったプロパガンダは信用しなくなり、人心の離反を招いたのです。, 日本はフィリピンを「従順な非征服地域」であることを望みましたが、翻ってこの地は東南アジアで最も激しい現地住民の抗日武装闘争が発生しました。, 旧コモンウェルス正規軍の残党や、地方の名望家が組織するゲリラの大半はオーストラリアに退避したマッカーサーとコンタクトを取り、その指揮下で抗日武装闘争を展開しました。, 一方で、戦前から農村地帯に強い影響力を持っていた社会党・共産党は中部ルソン地方でフクバラハップというゲリラ組織を結成し、日本支配打倒の後に共産主義革命を起こすべく激しい武装闘争を開始しました。, 地方のエリート層は、支配者である日本と抗日組織の両方に通じ、日本によって自分の特権が奪われないようにしつつも、農民層とのコンタクトを通じて日本側の横暴を防ぐ役割を果たしました。, 中には、特権を守るために積極的な対日協力を行う地主層もおり、フクバラハップ支持層である農民層と激しく衝突する地域もありました。, 1943年10月以降、日本は物資確保が困難になりよりフィリピン国内からの食料調達を強化するようになります。ラウレル政権は、なるべく日本軍との距離を保とうとし、対米宣戦布告を1年以上にも渡って拒否し続けました。日本軍による再三の圧力に末にようやく宣戦布告に踏み切るも、実際にはその文言は「非常事態宣言」を発するのみで戦闘行為には言及しておらず、日本軍部を大変イラつかせるものでした。, 1944年10月、アメリカ軍がレイテ島に上陸すると、日本は親日派ラモスのガナップ党を主体とした武装組織「マカピリ(フィリピン愛国者同士会)」を組織し郷土防衛に当たらせようとします。, ラウレルはこれに反対するも、顧問の浜本正勝らの説得によって同意し、抵抗を続けながら1944年12月にバギオにまで撤退。それからラウレルは台湾経由で日本に亡命しました。一方で、マヌエル・ロハスを始めとしたラウレル政権の主だった連中はアメリカ軍の占領地域に脱出し、戦後のフィリピン政治を担うことになります。, フィリピンの指導者層は、支配者である日本と妥協しつつも、状況を冷徹に見据えて、現実的に次に打つべき手を考慮して行動していたことがわかります。, なお、大統領に担ぎ上げられたラウレルは、1945年8月17日、終戦の2日後に奈良ホテルにてフィリピン第二共和国の消滅を宣言しました。, 1944年10月のアメリカ軍レイテ島上陸以降、フィリピン解放戦は民間人10万人を含む多大な犠牲を払いつつも、日本軍の抵抗は8月15日に日本が無条件降伏をするまで激しく続きました。, 8月25日、すぐにマッカーサーは戦前のコモンウェルスの復活を宣言し、その後1946年7月4日に、1934年の独立法に定められた通りに共和国として独立を果たしました。, フィリピンの独立は、日本軍が侵入してこようがしまいが既に1934年の時点で決定されたものだったので、「日本がフィリピンをアメリカの支配から解放した」などという主張は大ウソです。そういう意味だと、日本軍のフィリピン支配は、結果的には何も変えなかったということになるかもしれません。, ただし、日本軍の占領に伴う社会的な階層の対立は戦後フィリピンの治安問題の悪化を招き、また経済的なアメリカ依存体質を生むことになります。, まず治安悪化ですが、ルソン島を中心に抗日武装闘争を展開したフクバラハップは、闘争を通じて圧倒的な農民層の支持を得ました。独立後は「民主同盟」の党名で国政に打って出ますが、マヌエル・ロハスのリベラル党と鋭く対立し議席を剥奪されてしまいます。フクバラハップは中央政府に対し共産革命を目指す武装闘争を開始し、ルソン島は内戦状態に突入していきました。, 次に経済問題ですが、もともとアメリカとフィリピン間の無関税貿易は、1946年の独立をもって撤廃することが定められていましたが、戦禍によるインフラの破壊からの復興を優先するため、しばらく免税割当貿易が継続されることになりました。そのため、フィリピン経済はますますアメリカへの依存度を増すことになり、アジアの国としての自立を妨げる結果となりました, また、多大なアメリカからの支援金や投資はエグゼクティブの懐に消えて適切な民間投資に回らず、でも名目上はGDPが増加していったため、極めて不均衡な階級対立の一要因となっていったのでした。, 日本軍の占領は、現代のフィリピンが抱える問題の遠因となっている部分がいくつもあります。, もちろん全部が日本軍政から生み出された代物ではありませんが、もし日本軍の占領がなく、1934年の法律のままフィリピンが独立していたとしたら、その後のフィリピンは採るべき選択肢が増えたはずで、社会のあり方は現在と違っていたものになっていのではないかと思います。, なので、太平洋戦争はアジア解放戦争などと言いきってしまうのは東南アジア諸国の国々に対する侮辱であり、日本が起こした戦争により多大な人的・経済的被害が生じたこと、またそれに乗じて逞しく政治的・経済的に成功を治めた人物もいたことを、良識がある人は常識として理解すべきと思います。, 東南アジア史<8> 国民国家形成の時代 - 1939年-1950年代 2. 1941年12月8日に始まった太平洋戦争によって東南アジアはことごとく日本軍に占領された。タイは日本の同盟国で、日本軍はここを基地として利用した。タイはさらに米英両国に宣戦を布告した。 日本軍の占領地で高揚した東南・南アジアの民族運動【1945年~55年】戦後に始まった植民地からの独立の波は、日本軍の占領地域で高まった民族自決の機運を起点としてアジア諸国から、アフリカ諸国へ … 戦後日本外交における東南アジア パヌジュ セノアジ はじめに 1945年に日本は第二次世界大戦に敗れ、アメリカは戦勝固として日本を占領した。アメリカは、日本の 伝統的なシステムから憲法まで変えて … 東南アジア占領と日本人 : 帝国・日本の解体. しかも日本はアジア独立軍を編成し日本軍が進駐している間にほとんどのアジア諸国が独立している。 >>18 君。 1941年大本営政府連絡会議がつくった「南方占領地行政実施要領」という占領後の行政方針 … 日本が東南アジアを占領した大きな目的が「重要国防資源」の獲得だ. 東南アジア占領と日本人 帝国・日本の解体. 東南アジア-歴 史と文化-No.32,2003 響したという結論については,ど の程度の重要要因だったか別に論ずる必要があろう。 小林英夫 「占領期東南アジアの日本企業の経営実態」は,日 本企業の経営が東南ア だった。その石油の最大の供給地がオランダ領インド(蘭印)、現在の. [Tjet. 三 アジア政策の再検討-朝鮮戦争前夜- ニ ドル・ギャップ一 対日占領政策の変化と日本・東南アジア関係はじめに 's-Gravenhage: Sdu Uitgeverij Plantijnstraat. 中野聡著 (戦争の経験を問う) 岩波書店, 2012.7. (スカルノ:wikiより) 第二次世界大戦直前、独立国はタイだけでした。太平洋戦争がはじまると、日本は東南アジア各国を占領します。 太平洋戦争後、日本の支配は終わり、再び欧米諸国が東南アジアに戻ってきました。東南アジア各国では植民地からの独立を目指す動きがおきます。 オランダ領東インドではスカルノがインドネシアの独立を宣言します。オランダとの間で戦争となりました。インドネシア独立達成後、スカルノがインドネシア初代大統領となりました。1968年、スカルノが政権を握ると199… 日本占領期インドネシアでの報道活動の実態―報道の担い手たち― (1)宣伝班を中心とした占領期初期の報道 1941 年12 月8 日の日本海軍によるハワイの真珠湾攻撃 に数時間先立ち,日本陸軍はマレー半島 侵攻し,東南アジア地域の大半を軍事占領した。 【海外の反応】 日本軍の東南アジア侵攻は『侵略』だったのか『解放』だったのか 今回は「日本によるマレーシア侵略」と題された動画から。映像には、太平洋戦争序盤… 日本占領の歴史的衝撃とフィリピン社会 中野聡, 「歴ログ -世界史専門ブログ-」は、古代から現代までの世界史の面白いネタを収集しているブログです。 4 後藤乾一『近代日本と東南アジア-南進の「衝撃」と「遺産」-』岩波書店、1 95 年、194 ページ。 5 外務省記録「大東亜戦争一件 大東亜大使会議関係」(外務省外交史料館蔵)。 6 後藤『近代日本と東南アジア』195 ページ。 中野聡 / 岩波書店 2012/07出版 isbn : 9784000283755 価格: ¥3,024 (本体¥2,800) Report of a study of Dutch government documents on the forced prostitution of Dutch women in the Dutch East Indies during the Japanese occupation. 東南アジアの歴史の教科書の日本に関する記述が酷過ぎる件 「日本の占領は最悪の植民地支配だった」 1 : 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です :2012/10/31(水) … ここでいう「東南アジア」はタイ王国・仏領インドシナ(仏印)・英領ビルマ・英領マレー・蘭領東インド(蘭印)・米領フィリピン・葡領東ティモールを指す。

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